胆振東部地震を札幌で過ごした2日間。初めての震度7。インターネットの無い不自由。

北海道十勝に住む私にとっては地震は日常茶飯事。

子供の頃は「地震、かみなり、火事、親父」っていうくらい怖かったのですが
大人になるにつれ、「また地震かっ。」てなもんで、いつかは収まるだろうという考えを持つように………。

しかしながら、1993年の釧路沖地震、10年後の2003年の十勝沖地震は記憶に新しく凄まじかったのを覚えています。

現店舗の建て替えを決めたのも後者の地震でしたした。

当時を振り返ればフライヤーの油もこぼれ、床一面が油まみれになり、その上割れた食器で足の踏み場もないほど。水は断水し、インフラがストップ。道路も寸断され迂回を余儀なく致しました。

「災害は忘れた頃にやってくる………」と言われますが、今回の胆振東部地震もまさにそう。

6日の地震当日は所用で札幌にいたところの災害でした。

深夜3時という事で感覚的には寝ぼけていた面もあり、「ずいぶん揺れが続くな〜」くらいの感じだったのですが、いきなりの停電。
その時も「まもなく回復するだろう………」的に楽観視し、そのまま寝落ち。

朝起きてすぐにテレビを付けたのですが、やはり停電。
情報を収集しようとスマホのニュースを見た時に事の重大さに気がついた次第でした。

それでも、ライフラインはなんとか今日中に回復するだろう的な感想を持っていたのですが、外に出て唖然。
信号に電気が点ってない。(当たり前ですが)よって警官が手信号。手信号

いやいや、手信号してくれる交差点は良い方で警官がいない交差点の方が多いくらい。
信号のない交差点って、お互い譲り合うようでいてタイミングが合わないとぶつかりそうになるんです。(怖かったな〜。)

スーパー、コンビニは大行列。行列

弁当やさんだって早々に店じまい。ほっともっと

地下鉄駅もシャッターを下ろしNG。

有料駐車場に停めてった持ち主の方々は出るに出られずで困っている。駐車場

札幌での予定はこの日の夕方アポがあった為、この時でも(夕方までにはなんとかなるだろう……。)と言う楽観的な考えを恥ずかしながら持っていました。

しかし時間が経っても、その状況は変わるどころかスマホのインターネットラジオからは悪いニュースが次々に飛び込んできます。

結局夕方の会合は中止となり、今度は帰ろうにも帰れなくなりました。
なんせ、車で来たためにガソリンが1/3しかなかったのです。

すぐさま、スタンドを探すにもどこも長い列。長い列
電気が通ってないので発電機のあるスタンドは限られております。
2時間くらい待って、待って、ようやく………というところで、今度はスタンドがガス欠。
笑うに笑えません。

散々探し回った結果、ようやく1軒のスタンドが「20リットルなら……」ということでお裾分けして頂けました。
この時はさすがにありがたかったですね。

幸いにして宿をもう一泊取ってあったのがラッキーでした。

ガスは使えたので、カップ麺をすすりながら20時には就寝したのでした。

そんなこんなで電気が回復したのが7日、深夜3時頃。(同じ札幌でも回復してないエリアの方が多いくらいでした。)丸1日だけでしたが私にとって長〜い1日のように感じました。

翌朝、帰途につくわけですがガソリンが半分少々では心持ち無く、「10リットルなら……」というところを数軒回って、ようやく帰社。

我が社の被害は冷蔵品と冷凍品の数点で済みましたが、複数の方が犠牲になっている中、命があっただけでもありがたいと感じた次第です。

しかしここからが大変。

電気はかろうじて復旧したものの、電話回線とインターネット回線の復旧がまだ。

弊社のシステムはほとんどがインターネット回線を使わないと機能しません。

予約システム、顔認証のタイムレコーダー、給与システム、会計システム、経費精算システム、発注システム………。

よって、クラウド型管理業務がすべてストップ。

かろうじて取引先とのメールのやりとりを携帯電話の回線(テザリング)を使ってパソコンで送受信をします。

しかし、この停電でかなりの携帯電話のデータ量を消費しましたし、この日もメニュー表を送ったり、画像容量の大きいものを送ると、契約しているデータが一気になくなってしまうのではないかと冷や冷やでデータ容量を確認すると………

20GB契約なのに残データが999.99GB??

au

どういうこと??

こんな数字初めて見ました。(笑)

で、よくよく調べますと…

auの計らいで今月北海道の方は制限無く使えるそうです!

Au

全くもってありがたいですね。

そんなことで、本日も生きて商いが出来てる事に感謝です。

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この記事を書いた人

鈴木 賢司

昭和41年生まれ。地元高校を卒業し札幌東京へフレンチを志し修行。

家業である実家の飲食店に帰って20数年。気がつけば社長でした(笑)

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